MBAの大学院受験、一心不乱に取り組んだ英文和訳。

今朝、電車に乗っていて、ふと前の座席を見ると大学生と思しき若者が辞書を片手に、もう一方の手では論文のコピーを持って、和訳に取り組んでいます。

 

その姿を見て20年近く前の自分を思い出しました。

 

引っ越しと事業承継

 

今から20年ほど前に父が亡くなり、それまで働いていた組織を離れることにしました。

いわゆる事業承継ということです。

 

それまでは実家から離れた他県に住んでいましたが、父の死をきっかけに実家に帰ることにしました。

その時にはすでに結婚もしており、子供も2人。

 

上の子は小学校に入学したばかりで、9月の秋学期からは新しい学校に転校です。

 

これにはさすがに僕も気の毒なことをしているなと、心が痛みました。

 

大学院受験の動機とは

 

何故大学院受験を考えた方というと、そもそもそれまで勤めていたのが官庁でしたので、民間企業の思考を身に着けたいとの気持ちが強かったのです。

 

 

 

官庁というのは、まず予算がありその予算を具体的な業務として執行していくのが仕事になります。

 

つまり、仕事というのは基本的には与えられるものであって、自ら作り出していく要素は少ないことになります。

 

マーケティング、経営戦略、ファイナンスなどの言葉は知っていても具体的には全く分かっていない状態でした。(今も大して変わらないかも。)

 

一度、体系的に経営というものを学んで、それ以降の人生の糧にしようと思った訳です。

 

 

当時は社会人が大学院で学びなおすというのがトレンドとなっていて、NHKでも特集を組んていました。

 

私が受験予備校として通った「A」という学校の学院長もインタビュー取材に答えていました。

 

 厳しくも充実していた英語の授業

 

実際の受験対策は、主に英語と小論文、そして専門科目。

その中でも厳しかったのは英語の授業でした。

 

毎回、宿題が出るのですがこれをこなすのがきつかったですね。

 

英語の論文といっても、そのカテゴリーが経済、経営にまたがっていたりして

専門用語の和訳が難かしったです。

 

特に経営学の学者が書いた論文は、日本語に置き換えるのが困難で、こなれた文章にするのがとても大変だった記憶があります。

 

 

平日夜の週一回の授業ですが、授業が始まるまでにどうにか課題を終わらせ、授業で発表し先生からコメントを頂く。

 

授業の終わりに次の課題を与えられ、それを次の授業までに終わらせる。

 

このサイクルが4月から8月位まで続いたと思います。

 

所用があって課題を終わらせられないのでは、と思うことも何度かありましたが、どうにか最後までやり続けたと思います。

 

時間がないときは学校に行く途中の喫茶店で、テーブルを多めに占領し辞書を広げ、論文のコピーも広げて和訳に取り組みました。


それでも終わらない時は、学校についても先生が来るまでの時間を使って、どうにか終わらせるよう努力しました。

 

5か月くらいの短い間でしたが、自分の英語力がどんどんついていくのが自分でも分かり厳しくも充実した日々でした。

 

先生は津田塾を卒業後、フィリピンの名門大学で博士号を取られた才媛でした。

 

新しいことを始めるのは、やはり不安

 

 

 

それまで所属していた組織を離れ、新しい挑戦をする。

 

言葉だけだと勇ましく、希望に満ちたものに聞こえるかもしれませんが、当時の自分は不安のほうが大きかったです。

 

これから、どうなるんだろうという。

 

父とはろくに事業の話をしたこともなく、承継したものの事業のことは殆ど何も分からず、
五里霧中の状態でした。

 

それでも、どうにか早稲田大学のMBAコースに合格し、2年後に無事修了した訳です。

 

当時の早稲田のMBAコースは成績管理が非常に厳しく、「A」は上位10パーセント程度に制限されていたと記憶しています。(現在も厳しいとは思いますが。)

 

 

MBAを取得したから云々ではなく、経営の学びのきっかけを与えて頂いたことが重要だったように思います。

 

 

今でも桜の季節になると、あの頃JR日暮里駅のホームから見た、高台にある寺院の桜祭りの提灯がボーっと灯されているのを思い出します。

 

 

【今日のつぶやき】

 

今後、加速すると考えられる高齢化社会、「人生100年」という言葉も最近よく聞くようになりました。

 

60歳で定年を迎えたとしても、残りの人生が40年。

 

今の60歳はとても元気。

 

定年後の第二の人生をどうするか、本気で考える時が来ていると痛感します。